浄土宗浄国寺
由来イメージ


由来

 浄国寺は山号を無衰山、院号を古今院といい、善導大師の晨朝礼讃(じんちょうらいさん)の「浄国無衰変、一立古今然」から採られています。開山は真蓮社短誉文慶大和尚で、天正年間に高田郡吉田村に一寺を建て浄国寺と称していましたが(吉田町)慶長年間福島正則公のすすめにより広島に移住し、現在地を賜り浄国寺を建立し、山号・院号・寺名ともに吉田時代のものを踏襲したといわれています。寺域はもと毛利輝元公の別邸のあったところで、福本尊島氏のときも下屋敷になっていました。土橋町に町名変更になる前は「西地方町」といい「海に近い土地」を意味していました。
 開山の文慶上人は幼少の頃駿河国知源院に住んで知短上人の弟子となりました。この知短上人は徳川家康公が竹千代君と称せられたころの習字の師匠で、文慶上人は竹千代君の手習の朋友-いわば江戸幕府創設者徳川家康公とは竹馬の友でした。
 浄国寺の苗本堂は明応二年の火災で類焼し、嘉永2年8月15日第17世載誉法運上人が戦前までの堂宇を再建されましたが、ついに本堂は再建されず、庫裡西南側の一室が本堂にあてられていました。戦前の浄国寺には観音堂、地蔵堂、鎮西堂、鐘樓堂等があり、境内の大いちょうの樹は西地方町界わいの目印として有名でした。浄国寺の境内では大相撲の興行がしばしば行われ、大正3年10月4日に行われた名横綱常陸山の引退興行は特筆されるべきことです。また延命地蔵の盆踊りは盛大なもので、多くの人が参集したといわれています。

 昭和20年8月6日午前8時15分に投下された一個の原子爆弾によって、広島の街並は瓦れきと化しました。爆心地に近い浄国寺では一瞬の内に堂宇を焼失し、多数の尊い檀信徒の命を失うとともに、ただひとり寺を守っていました第20世實誉大信上人は、いたましくも建物の下敷きとなって亡くなりました。荒涼とした焼跡には、ただ大いちょうがポツンとたっているだけで、遠く広島駅からも一目でそれとわかったといわれています。原爆の威力の凄さは、境内にあった六地蔵の御首のひとつが、寺から3、400メートルもはなれた土橋の電停の近くに飛んでいたことからも知られます。
 第22世貞誉常磐上人は早くに夫を亡くし、幼い子供2人を育てながら戦後浄国寺の復興に全力を傾けました。寺を思う人々の努力によって市内寺院の中では復興の早い方で、昭和23年には浄国寺で御忌をつとめた程です。ただ戦後の都市計画により西側墓地を削られ、境内は戦前のほぼ半分(3,735㎡位)となりました。以来20有余年、檀信徒の方々の並々ならぬご協力により、昭和43年年余の歳月を費やして本堂・庫裡の再建を見、内陣仏具荘厳もほぼ整い、浄土宗開宗記念事業として山門等の新築によって面目を一新し、昭和49年3月17日浄国寺第23世浄誉明信の晋山式に伴い落慶式を勤修しました。
 爾来40年余の歳月が経過し、本堂、庫裡の修復の動きが出ていた矢先の平成18年5月9日早朝、出火しました。本堂、庫裡を全焼するにいたり、いたましくも第22世貞誉常磐上人は火災により逝去いたしました。
 再建修復工事は平成19年4月16日より開始され、約2年間に及びました。檀信徒の皆様の絶大なるご支援によりお陰様で新たなる姿を整えることができました。
 平成21年7月20日、浄国寺本堂に於いて「浄国寺落慶法要」を勤修し、今日に至っております。